昭和五十六年九月五日 朝の御理解


X御理解 第二十八節 病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。


 信心をして身に徳を受けるということ。その徳を受ける過程と言うか、そこのところを教祖はこういう表現で教えられるのです。いかに合楽理念と言うたところで始めからお徳が受けられるとかね、おかげが受けられるということはないのです。それは信心はなくてもお願いに来て、まあ不思議、奇跡と思うようなおかげを頂く場合もあります。
 %1まあ例えて申しますと、昨日は矢部の後藤さんがそれこそ一問郎党と言うでしょうか。その叔父さん叔母さん達、その甥の子供になる人が、白血病で久留米の医大に入院しております。それでどうでも助けと下さいというので、まあ皆でお参りをして来たわけです。
 %1神様にお願いをさせて頂きましたら、『さんずいに可と書くね「河」という字を頂いたからね。これはね、一心を立ててお願いをすればおかげになる。』それは現在の白血病と 言うたら、助からないという程になってるんだそうですけれども。ならここで現に、あの今そこに総代の永瀬さんの長女なんかは、やっぱそうでしたけれどね。おかげ頂いて結婚して子供まで何人も現在出来ておるという例も、まあいくらもあるわけ。
 %1ですから神様にお願いしておかげを受けるということが私は、さんずいを自然と、可ということは神様がお許しを下さるとね。可、不可とこういうふうに申しますでしょう。叶うという事だと思いましたですね。だから何しいうてもね、今日叔父さん叔母さん達がこうやって、一杯で、六人か七人かで参って来ておりました。参って来てお願いしたからもうこれでよかちゅう事ぢゃない。
 %1何と言うても、やっぱり子供のことは親が願えと仰せられるのですから、親が参って来るように。母親は病人に付きっ切りですし、主人はなんか遠方行きのトラックに乗って不在だとこういうね。どうあってもいいから、兎に角、あの両親がね、お参りして改めてお願い。親がお取次ぎを願うというおかげを頂けと言うて、まあ返した事でございましたけれども。
 例えばならそういうふうにして助かって参りますということは。初めて参って来た、ね。神様は助かると、おかげはやるとこう仰ておられると思うんですよね。自然に可と、自然におかげを頂くと。けれどもそれにはね、なら私が言うね。子供のことは親が願う。そして一心を立てるということにならなければいけないよと言うようにです。合楽でそういう例を言うたら限りがないですよね。
 だからそういうおかげも受けられるんですけれども、そういうおかげだけが、ならいつも頂けるということぢゃない。お互いが幸になりたい幸福になりたい。為には何と言うてもね。今日の御理解ぢゃないですけれども、ね。災難やら病気災難の根の切れるまでとこう仰せられる、ね。
 難儀な元、まあめぐりとこういうことになるかも知れません、ね。そのめぐりの根絶という事。それを井戸ざらえの例をもって教え。こんなにも適格に例えたお話はないですね。それを途中でやめてしまうから水はいつまでも濁っておるようなもので、とこう仰っておられます。
 だから、その根限り、云うならばお取払いを頂くなら頂かせて貰うてね。清水になるまでのおかげを頂かせて貰いたい、ね。そこでそこを、なら合楽理念に基づいたらどういうことになるかと言うと、成程病気災難が続いておる。難儀から難儀。そういう中にあってもです。その云うならば、難儀の実体というものが段々信心によって分かってくる。
 そのお取払いを頂く為には、こういう信心。さあ水をかぶれ、火の行をせよ、水の行をせよと云うような。そういうことはむしろ合楽で致しません。いよいよ心行、信行、家業の行によって、なら井戸は清水になるまでのおかげが受けられるのだとね。
 特別な信心をしなければならんということぢゃない、ね。勿論心の行、これは限りないことですから、教えを頂く事によって心の行が段々本当なものになってくる、ね。日参をするとか、朝参りをするとかと、こういうこれを信行と。信心の行です。これを本気で一生懸命にさしてもらう、ね。同時に家庭に於ては、家庭の家業そのものが行なのだから、ね。今日も結構な修行さして頂いてと答えの出るような取り組み方をしなけりゃならん、ね。
 ただこの方の行は家業の行だからと言うて、家業しておることが行ぢゃないのである、ね。行の内容がね、行にならなきゃならんのです。婦人の方が、例えば漬物一本切らせて頂くでも、うかつにしていると、云うならば指を切ったとこういうような事があります。はっと自分に気が付かせてもらうと、心行が出けていなかった。というようにですね。
 その心行というのは、いつでも絶えず出けるのだけれども、なかなかうかつにしがち。それを教えを頂く事によって心行が段々血肉になってくるように。心の行が出けるようにもなる、ね。家業そのものが行として、所謂、実言丁寧の云うなら、お百姓している人はお百姓の中に、それこそ鋤鍬の中にでも、云うならばお礼が言えれるような御用をさしてもらう。商売人であるなら、持つ算盤の中にもです、神様が生き生きと働き給うようなおかげを頂きたい。
 %2これは昨日、あの誰でしたかね。あの浮羽郡の石井さんという、高芝さんの姪にあたりますかね。お酒屋さんです。もう兎に角、こうやって帳簿をさして頂いとるけれども。何か心がうかんと言うか、何かいらいら、何かどうにも出来ないことになってきたので。はあーこういう時、一つ御理解を頂こうとテープに納めていっているテープを聞かせて頂いた、ね。
 %2テープ聞きながら、まあその帳面付をしておられた。そしたらたまたま久留米の稲垣さんのお話が出てきた。或る問題でお参りをした。帰らせて頂いた。そこまで出た途端に、前を通った車が、一、一、三、九というナンバーの車が通った時。それを見た瞬間に自分の心がね、何かすっきりしたという話が御理解に出ていた。
 %2もう一つ一つを有難い有難いで頂いていけばよいよと言うわけである。だから自分の心の中にあったもやもやしとったものが、はあーこれも有難く頂く心行なんだね。そしてね、石井さん、石井妙子さんと言うんですけれども。帳簿をさして頂いて一番最後の合計を出させて頂いたら、一、一、三、九ぢゃったげな。もうこれにゃ驚いた。もう今までのもやもやはいっぺん、もやもやどころか、もう有難うなって。もうそれこそお客さんにコップ一杯酒を注いであげるでも、それがもう嬉しゅうして有難うしてという心で。その次の商売が出けたとこういうのである、ね。
 だから商売しておるその事が行ぢゃないのである。その内容なんだ。帳面を付けておってもですね。なら算盤の中にも神様が生き生きと躍り出て下さるような働きを受けながらの家業の行ぢゃなからなきゃならんということなんだ、ね。
 それこそ、云うなら合楽理念に以てするとですね、病気災難は根の切れるまでと、ね。その根の切れるまで、はあー大変なことだなあ、とてもこりゃ一年二年ぢゃ出けることぢゃないように思うという。例えばそういう場合であってもです。もう年限なんか問題ぢゃなくなってくる。
 もう兎に角その事が楽しゅうなってくる。有難うなってくる。合楽の信心を頂きだしたらそうなんです。自分の心を自由自在に、云うなら使いこなしていけ、どんな難儀な中にあっても、それこそやれ痛や今みかげをという心が生まれてくる。今めぐりのお取払いを頂いておるというような心が生まれてくる。だからそのゴミ浚えをするその過程に於ても楽しゅう有難うでけるということなんです、ね。
 %3昨日は神愛会でございましたから。まあ本当にそうですね。九州中は勿論だけど、まあ代表的なね、栃木あたりからでもお参りになっておられる。九州はもう山口、九州は熊本、壱岐というようにね。もう先生方が合楽理念に基づく布教の現場での体験を、もうそれこそ生々しゅうお話になりました。
 %3その中に熊本の富永先生が発表しとられました中に、先だって十六日の夏のご大祭、もう兎に角ご大祭のご比礼というか。もうなんとはなしに、こう動きたくないごと、帰りたくないような、あの感じがして、誰先生かの部屋でお話をさして頂いておった。
 %3そしたら私はその話を聞きながら有難いなあと思ったんですけれども。信徒会長が、大祭後に各部屋をずーっと廻っておったそうです。やっぱり上に立つ人はその位の気持ちはいるですね。乱れてはならん、そこで各部屋をずーっと廻っていって、丁度富永先生達がお話なっとるお部屋に入っていった。口には言わんけども、やっぱ心で、云うならば教会を中心にした考え方の人達は違うなあと思うた。
 %3私なんかはもうすぐぱーっと後ろへ、後で見て廻るようなことはないけれども、御信者がそういうふうに最後の最後まで心を使うておられるということは有難いなあと思いました。
 %3そして信徒会長が見えたから、秋永先生にとここでは言うとりますから。先生実は先日からこういうようなお夢を頂いたんですけれどもと言うて。体が大変健康であんなさらんから、そのどうも体がきつかったからちょっと休ませて、横にならせてもろうた、そしたら早速、そのお夢を頂いたのが、『猫を抱いて寝ておる』というお夢であった。正しくお知らせと思われるです。
 %3そしたら、秋永先生が、ははあち言うてから、お互いそうですもんなーと、ね。すぐピンと来たわけですね。猫というのはここで不成と言われる。不成ということは成就しないということである、ね。神様は富永先生に対して、只今まあだ、云うなら信行中なのだ、ね。
 %3何時からお広前は預かって、云うならばいつもかつもという事ぢゃないけれども、ならお退けの時間があって、一服する時間があって、休ませて頂く時間というのはちゃんと決まっている。それを横になる時間ぢゃない時間に横になるような事しよったら、あんたの願いである願いが不成に終わるぞと神様から言われておるようなもんだということなんです。
 %3皆さんそこのところが今日の御理解と中で、ならずーっと参りょりますと言うてね、何十年間続いとるだけぢゃいかんちゅう事。そういう修行が途中からね切れるようなことではいけんということ、ね。折角神様が願いの成就のための働きを下さってあるのに。云うならば氏子の、云うなら不成になるような事をしでかしておる、ね。
 %3不成を抱いて寝ておるようなことである。これではね、いつまでたっても水は濁っておるようなもんぞという事になるでしょうが。
 %3そこんところを、なら合楽の場合はね。そういう難しいことです。けれどもそれが楽しゅうなって来る、有難うなって来るという働きがその前後に必ず起こっておるということだ。その日もその事を秋永先生から、まあ聞いてそう感じた。そして帰らせて頂いて、バスで行き汽車でまあ帰られるわけですけれども、いつもはどんなに満員の時であっても神様が席をピシャと用意して下さる。
 %3こりゃもうこりゃ私共も体験がありますけれども。本当に神様が大事にして下さるんですね。ところが先生、その日に限ってというて昨日話しておられましたが。その日に限って日奈久まで立って行ったち。
 %3ははあ神様が、今日分からして頂いたこと。もう楽はしませんというような心持ちを神様が受けて下さって今日は立ちんぼうの修行をさせて下さったとこう感じた。だから有難いでしょう。今日は席がなかった。そりが他ん者は皆かけられるげなもん。で自分のだけが席がとうとうなかった。
 %3そこにやっぱり、そう本気でこちらが修行しようという構えが出来たらもう神様が早速修行を求め給う。駅で降りてタクシーに乗られる。そのタクシーが何と七、一、一、三でしたかね。だからいよいよ自分が汽車ん中で修行してきた修行がこれが神願成就。
 %3最後に十三とでておるから、いよいよ神様が神願を成就さしてくださる働きだと思うて有難かった。けれども七、一というのが意味が分からなかった。帰って早速教典を七十一節を開かせて頂いたらね。もう本当に自分の心にピッタリの御理解であったと言われるのです。
 だからね成程ここで一息寝たらなあと思うようなこともありますよね。けどもそれでは信行が切れるでしょうが、ね。日参すると決めたらどんな事があってもそれこそ雨が降るから風が吹くからえらいと思うちゃならん、その辛抱こそ身に徳を受ける修行ぢゃ。だからその辛抱そのものが有難うなって来るという。そういう働きが合楽に通うて来ると必ず起こって来るでしょうが。
 %4昨日は、福岡の稲員さんが必ずこの神愛会に参加されます。で昨日も早めに出て来よったところが、久留米の駅で吉井行きのバスが来たけん乗ったげなら、山辺行きぢゃったげな、ね。ようあすこは間違えるところです。山辺行きと下、この道路を通るとと二通りある。だから途中でその降りなきゃならんとが、横に乗っとんなさった人もやっぱり間違いて乗っちあった。
 %4そりから一人で降りてタクシーをやとうてお参りして来たというのですけれども。その一緒になった方がです。あのどちらまでおいでですかち。合楽の金光様にお参りしますち。はあそうですか、貴方と一緒になったのも何かのご縁だろうから、これは合楽の金光様にお供えして下さいと言うて御初穂をことづけられたと。その車のナンバーが一、一、五、四という自動車であった。
 %4はあ自分な間違えた、自分な乗り損なったと思うておったけれども。そこにそういう一つ一つが御用なんだぞと、成程神愛会にちょっと遅れたけれども、そういう御用がありましたというお礼のお届けがあったんです。神様が付きどおしに付いてござる。神様がもうそりこそ耳元でささやかんばかりに物言い続けてござるのを感ずるでしょう、ね。
 そういう働きがね一杯起こって来るんです、お互いの修行が本気になってくると。だからその修行もね、苦しいことなんだけれども有難いという答えが出るような修行が段々されていくから。私は合楽理念に基づく修行ということは素晴らしいこと。普通ならきついでしょう、苦しいでしょう。だから途中でやめようごたるけれども、とてもやめだんされんというところになってくる。それを続けていく事が有難いということにもなってくる、ね。
 そういう修行をさして頂きながらの、云うならば井戸は清水になるまでのおかげを頂いて、それこそ懇々と清水が沸いてくるように、汲んでも尽きぬおかげが受けられるようなおかげ。もうすでに徳である、ね。頂いても頂いても尽きぬおかげである、ね。ですから皆さんの信心の内容というものがです。成程時々参ってお願いしておかげを頂いたという、ぽつんぽつんとそこで切れてしまうようなおかげぢゃなくて。
 もう本当に懇々とね。沸いて尽きぬおかげがこう沸いて出るようなね、おかげを頂いて欲しいと思います。金光大神のみ教えはそうしたお徳の頂けれるお話ばっかりなんです。だからその気になってその教えを頂くと、神様がその気になって修行がしよいように。いやし良いようにぢゃない、嬉しゅうなって楽しゅうなって愉快にさえなってくる手立てを神様がその気になると作って下さるです。
 だからその修行も又いとわんですむ。云うならばおかげを頂く中に自分の心を自由自在に、云うならばまあ二、三日前の御理解ぢゃないけれども、それを一つの花材といて、自由自在に自分が見ほれるような花が活け上げられるというのである。だから自分の心をその、云うなら合掌したいような心が育っていくのですから楽しゅうしてやめられないわけ、ね。
 そして井戸は清水になるまでのおかげを頂かしてもらう。大変至難、難しい事のようですけれども。その気になると難かしゅうはない。神様も一緒になって働いて下さる。神様一緒になってめぐりのお取払いの、謂わばお手伝いをして下さる。そして力も付けて下さる、お徳も下さる、ね。
 本当に昨日の先生方の発表をまあ聞かせて頂いて、本当に清水になるまでの、しかもらんらんと尽きぬおかげの頂けるおかげの頂けるその過程をね、通っておられるという話ばかりでした。素晴らしい。だからそこんところを一ついよいよ楽しゅう有難うね、通らせて頂く。
 合楽理念だから、いっぺんに井戸が清水にんなるということはない。合楽理念だから、いっぺんにパーとお徳を受けることはない。その過程が大事。その過程をまあ難しいごとあるけれど、普通でそりゃ大変難しいことなんだ。けれども、そこに辛抱するところは辛抱し抜くという、精進するところは精進するという生き方に、丁度、まあ歌を歌う時にね、伴奏があるように。そこにリズムを感ずる、天地の。そのリズムに乗っての修行だから、修行もまたし良いし、有難いということになるのですよね。どうぞ。